*All archives* |  *Admin*

2017/06
≪05  1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30   07≫
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
記念日
1月10日 午前9時 オペがスタートした時間です。
正に今の時刻・・・!「服部さん~頑張りましょうね~それでは麻酔のマスクしますよ~」あの時・・・すべてDrに、この身を任せました。そして神様・そして身近な素晴らしい人々に、自分の運を祈ってもらいながらオペへ挑みました。生まれ変わるつもりで・・・目覚めた時に強烈な痛みで・・・生きている事を確信し、息絶え絶えの呼吸に生きていかねば・・・という覚悟もできました。今でも付きまとう疼痛は病気克服の証!無理をしてはいけないという楔!生きていく糧!

愛媛大学医学部 付属病院
1

3年前の画像です。愛大病院の全景・・・お世話になりました。
入院してオペしていただてた第二病棟・・・懐かしい~って病院懐かしがってどうするよ!
2

おっちゃんの守護神 金毘羅様の御守り
3

今朝は5時30分に目覚めました。一種特別の感情でした。何かしら麻酔から覚醒するような感覚でした・・・昨夜から1月10日明日はオペ後3周年や・・・!って思いながら寝たので、目覚める前に夢を見たようです。ICUの情景の夢でした。しかし目覚めてみると痛くもないし、頭の横にクゥがスウスウ~寝てるし、隣りではママと愛の寝息がしていました。良かった~って思い嬉しかった~!♪ 集中治療室を脱出前の画像
4

あの時ご心配をお掛けしました皆様・・・励ましのお言葉今でも忘れません!
5

本当に本当にありがとう! もう二度と病気にならないよう養生します!
6

石の上にも三年!って言葉がありますが、もう3年・・・イヤ~やっと3年・・・まだまだ3年!毎年1年1年ありがたく生きていきたいね!
   あのときの心境を詩にして家族におくりました。

あの雲の流れのように ゆっくりと生きていたい 
 あの太陽のように暖かい心を持っていたい 
  あの心地よいそよ風の様に静かな心で生きていたい 
   どこまでも広がる青空の様に澄んだ心で生きていたい 
時には荒れ狂う嵐に立ち向う力と勇気ももっておこう 
 大切な君たちを守るために  
              泰 典2003年1月20日
忘れんようにしよぉ~  

ちょうどマミちゃんがセンター試験の帰り道にお見舞いいただいた時の画像です。この顔を見て不覚にも笑ってしまい激痛で泣き笑いしましたよね。
でも笑いは闘病の励みになりました。
本当にありがとう~
1


確かに!あの時は妖しかった・・・風邪引かないように完全防備してモコモコになってたよね~
2

1

それなのに頭は中学生みたいにグル坊主にしてしまって・・・
でも目つきは怪しい~
3

オペ後シャンプーできないから、痒いので思い切って坊主頭!
懺悔したの・・・?って言われたり出家するんかぁ~?って言われたり、とにかく情緒不安定だったようーな?





平成15年 1月  愛媛大学 医学部 付属病院にて

      縦隔腫瘍 闘病記
1

  病棟からの夕日  よくベットから見ていました。

今回、闘病記を記するにあたりまずもって、健康こそ宝である…という事を
つくづく感じた。心配をかけた家族や両親・兄弟そして友人の暖かい励ましに心から感謝したい。
 文の不明瞭な点、記憶のさだかではない点、そして表現の貧困さに我ながら
情けなく思うが闘病記を書き記す事により、時と共に薄れていくであろう闘病生活を振り返り、我が心の弱さやいつぞや壁に出くわした時、難問に悩んだ時には読み返し、生きていることが一番大切であり、ありがたい事であると言う事を振り返る為に記しておこう。
 また、時間を作って次回、続きを書いていこうとも思う。したがって、中途半端に終わってしまっている。
 最後に、誰に見せようと想い書いた闘病記でなく自分自身のために残そうと
思っただけであるため、自由気ままに書いている。


手術が必要なのか…(石川病院にて)2002年

「先日のCT検査の結果はいかがでしょうか…?」 病院へ電話で問い合わせた。
「結論が出たから来てください…そうですねえ、今日の昼から一番に来てくれますか」「そうそう ご家族の方も誰かご一緒に」           
12月15日 1週間前に撮ったCT像影検査の結果が出る日であった。
電話を切った後、なにかゾッとした。「そうですねぇ ご家族の方も誰かご一緒に」って言う先生の言葉が頭に残った。
家まで15分程度の道のりが、とても嫌だった。家には妻が結果を心配して待っている。
「ただいまぁ~」平然そうな顔をしいて家に帰った。
「結果でたの…」 「昼から行こうと思って… なぁ一緒に行ってよ…」
 電話で「そうですねぇ ご家族の方も誰かご一緒に」って言われた事は言い出せなかった。
妻はしぶしぶの様子でついて来た。待合室での時間が異常に長く感じられた。
「今日は院長先生がお待ちですので、どうぞお入りください。」
いつもは、主治医に診察してもらうし、先日のCT検査の指示も八島先生だったのに・・・
「はい、ご説明します。7年前右肺の過誤腫を摘出したときの、愛媛大学のフィルムと、今回撮影したフィルムです。 ご覧のように、7年前なかった影がそうですねえ1円玉位の大きさに写ってます。まああまりご心配は要らないかとは思いますし、手術も今すぐにと言う事でもありません。今日は愛大から放射線科の先生がお見えですから、詳しくはその先生からお話を聞いてください。」  手術も今すぐにと言う訳でもありません…?
 放射線科の先生は、とっても若く、何か不安を覚えた。
「院長から聞かれましたか… そうですねぇたぶん悪い病気でないと思いますが、腫瘍があるのは間違いありませんねぇ ご覧の場所は肺ではありません 多分、縦隔と言う部分でしょう 今すぐとは申しませんが、手術により摘出が必要でしょう 来週すぐに大学へ帰りまして、専門の先生に状況をすべてお伝えしておきますので、大学へ行かれる事を、お勧めいたします 当然、院長先生からの紹介状を添えていただかなければなりませんが」
「お願いいたします」即答した。妻は、撮影フィルムを食い入るように見つめ、黙っていた。
院長に紹介状をお願いし、家へ帰った…。
「何か、体はしんどくないん…手に力が入らないとか、胸が苦しいとか… 目が見えにくいとか…」妻に質問されるが、まったく自覚症状はない。
後から知ったが、妻は大体のことは知っていて、“悪性”であることを予期していたらしい。
「まあ、愛大行って、診てもらわないと分からんやろぅ…」
「愛大で診てもらうと、何かの間違いでした…っていわれるかもよ」とふざけてはみたが…
その夜、両親へも事態を説明し、大学へ行って診てもらう事、おそらく手術しなくてはならい事を告げた。

愛媛大学医学部 再診 12月24日 
2


 今日は松山 愛大病院へ行く日である。今となってはその日の事は良く覚えていないが「とにかく早く切った方がいいでしょうね」と言う、中野先生の言葉ははっきり覚えている。
 病院へは10時頃に着いたのだろうか、駐車場へ車を入れ、正面玄関へ歩いていく道、「迷惑かけるなぁ~」って妻に言った。 受付にて、再院の手続きをとり外科外来へ行く。どの位待ったのか。 看護婦さんに呼ばれ、診察室へ入ると“神経質”そうな先生が座っていた。 丸イスに座るやいなや、地元病院で撮ったフィルムを診ながら、「手術しなければなりませんね…。」と言いながら肺や心臓のモデルを手にとり説明し始めた。
 「聞きなれないでしょうが、縦隔という場所が、肺と肺の間にあり、心臓、大動脈、神経、食道…と大切な場所に、そうですねぇ2cm大の腫瘍があります。 しかし良く見つかりましたねぇ~。 通常なかなか見つかりつらく、呼吸困難とか、運動障害がでて、病院へ来たときにはかなり進行しているケースが多いのですが、ラッキーでしたね。」
「まあ、手術となると大変心配でしょうが、縦隔腫瘍には3つ腫瘍があって、1つは奇形腫。2つ目はリンパ腫、3つ目は胸腺腫が主な腫瘍です。奇形腫以外は… あっそうそうすべて本人に告知してよろしいでしょうか。」「妻の顔を見つめながら…ハイお願いいたします。」
「わかりました。奇形腫以外はすべて悪性です。」 「先生、オペ後の治療と予後はいいのでしょうか」と妻が質問すると「鋭い所を突いてきますね、奥さんは医療関係の方ですか…」
「はい、四国中央病院でナースをしています。」  「そうですか、じゃあ話は早いですね…まず細胞検査と言う方法もあるのですが、放化の先生とも相談したのですが、針をアプローチして行くには、あまりにもリスクを伴いますので、一般に手術=検査=治療という方が良いと思います。 手術後は検査の結果、放射線治療、および抗がん剤治療は必要に応じて使用します。 転移の可能性は少ないと思いますが、手術の際、脂肪や筋肉は多めに切除します。 ただ何処に浸潤しているかによって、たとえば肺の壁に食い込んでいれば、肺の一部は切除するでしょうし、大動脈にくっついていれば、バイパスを作って、大動脈も切除でしょうし、心臓にくっついていれば、心停止させて、人口心肺を使っての手術になります。」 「7年前の肺の手術より大きな手術になりますよねぇ」と妻の問いに…
 「いいえ、7年前の手術も今回も大きな手術ですよ。それよりも5歳のときの心臓手術もありますから、各癒着が心配です。心臓や大動脈の癒着の場合、アプローチしていく時、大出血を引き起こすことも考えられますからねえ~」
「すると、輸血は必要ですか…」 「輸血の準備は必要でしょう」
「今のところ、自覚症状がないとのことですが、そこに仰向けになってください。」先生は、しきりに首の付け根のあたりを押さえていた。
 「今日が12月24日ですから、年が明けてすぐに手術しましょう。今のところ予定があいているのは20日頃ですね、この後すぐに入院の手続きを看護婦さんから説明させます。
入院は年明けすぐにしてください。手術の予約もすぐしておきますから」
妻にはとんでもいないクリスマスプレゼントになってしまった。
また、手術… 覚悟はついたと思ったが、今回は最初から悪性の疑いと診断…
さすがに目の前が真っ白になる思いがした。
妻の顔はとってもとっても青白く見えた。「腕のいい先生みたいじゃない」
「あのくらいの年齢の先生が一番、手術経験も多数有るだろうし、外科の先生らしく気が短いみたいねぇ~」
「中野先生は講師だから、教授・助教授の次で一番手術の執刀の数も多いのだろう?」 「すべて中野先生にお任せするよ…」 「サッキなぁ採血する時、いつもは簡単に血くらい採れるのに、今日はなかなか血が出てこないんよ…看護婦さんは困って、もう片方の腕からも採られてしまった。」 「体か硬くなって、血圧も下がっとったのよ、あんまり硬くなると採るほうも嫌やし、でも先生もあんなこと言ったらいかんよねぇ… あんな事言ったら看護婦さんは嫌なものよ… 緊張するのよ~」  
「看護婦さん入院のご説明と、採血してください。 あぁ~奥さんはナースだから…」って 
 でも、正直妻が看護婦でとっても良かった。その事はとっても安心だった。
「なあぁ~入院も決まったし、手術も結構早いみたいやから、やっぱりグアム旅行行こう」
この話の前おきは長くなるから省略しておくが、家族と友人家族で年末年始にグアム旅行の計画を立てていたのだ。「行こう…行こう… 楽しく旅行しよう…よ」
まあ、この時期からキャンセルもできるわけがない。妻は当然まったくのってこない。
帰りぎわ、車にエンジンをかけるが、足が震えてアクセルが踏めない。
「チョットまって! 足が動かん… 座席に座ると気が抜けた…」     
「しばらく休もう…」妻の声に我に返りながら…       沈  黙

帰り道、ちょうど昼を越していたので昼食をとる事にした。
「何食べる…? 軽いものがいいけど…」 「パパがほしいものでいいよ」 
「そうやなぁ~ おそばでも食べようか…」 ある意味、覚悟は付きつつ有ったので食欲は有った。 
以前、父が大腸がんで手術した時、癌の宣告を受けて帰ってきた両親から報告を受けた時の母の一言を鮮明に思い出した。
「大腸がんで手術の宣告を受けたのに、お父さんったらお昼ご飯、パクパク食べてビールまで飲もうなんていうのよ… 私なんか砂を噛んで、飲み込む思いがしたわぁ」 たぶん妻も同じ心持であろうと思いながら、そばをすすった。
家に到着するや両親に入院・手術の説明をしたが、この年になってまた両親に身体の事で心配かけるとは、親不孝この上ない。
妻の詳しい病気の説明に、両親とも異様に神妙だった。

入院予定日の知らせが入った

入院日の知らせが、病院からあった。第二外科の婦長さんからだった。
電話の声は、とても丁寧である。1月6日 月曜日に 早々入院日が決定した。
グアム旅行から帰る明後日である。
当時、妻に送ったメールを思い出しながら記しておく。

今回は、さすがに落ち込みました。
しかし病気の事はすべて受け入れました。
全力で治療に専念します。
せめて10年 子供達が巣立つまで
何とか20年 厄のお祝いができるまで
欲を言えば30年 両親の年齢まで
生きていたい
まだ、やりのこしたこともたくさんあるし
まだ、行きたいところもいろいろある  
子供達の成長を見守っていたい
もっともっと生きていきたい

今から思えば、とっても精神不安定で、心細く、人恋しかった。
インターネットで病名を検索し、あらゆるページに目を通した。
多分、年末にグアム旅行してなければ、頭がおかしくなっていたに違いない。
異国の地で正月を迎えたのは、とっても良かった。少しでも頭から病気のことが消えうせたし、普段とは違う開放的な時間に身を置けたから。
グアム旅行に同行してくれた佐々木家の皆様、楽しい想い出を心より感謝してます。
でも旅行中も情緒不安定で、みんなから見たらとっても変だったに違いない。
小さな子供が、落ち着きなく“ガザガザ”するように、いてもたってもいられぬって感じであったろう。
子供たちにも、十分病気の説明をした。この子供たちが、巣立つまでは、生きていなければ、この家族を残して、死ぬわけには行かない。
その事ばかりが、繰り返し頭の中に現れていた。
明日を入院に控えた夜、子供たち二人から、それぞれ手作りのお守りをもらった。何にも変えがたきお守り…であった。
6


入院当日 2003年 1月 6日
7

3

入院当日は、両親に付き添ってもらうことにした。術後妻には1週間ほど付いてもらわなければならないから、何度も妻に病院を休ますわけにいかないのだ。 
 第二外科病棟へ着くとすぐ、婦長さんが病棟を案内してくれた。とっても綺麗で清潔だ。 病室に案内され、余計に安心した。ホテルの1部屋ほど快適。
しかし、それも1瞬である、担当医がすぐにやってきて、午後からのMRI検査の説明と同意書にサインした。次が問題である。酸素検査ということで、動脈から血液を採取する。
 これがとても痛い。針を刺した箇所が痛いのも当然だが、腕自身がなんとも言いようのないだるさがある。ちょうど、脈拍をとる手首の動脈に、太目の針を直角に突き刺すのである。 先生にすれば簡単な事だろうが、とっても嫌なのである。しかししょうがない。
 しばし、ベットで横になっていたら、担当の看護婦さんが呼びに来てくれて、MRIを撮りに行くことになった。1階の放射線科である。行く道中に担当看護婦さんの雑談に、心穏やかになったような気がする。婦長さんといい担当ナースといい とても感じがいい。
 MRI検査は異常なくらいの雑音が撮影機の中でするくらいで、別段ストレスのかかる検査ではないのに、途中から造影剤の点滴が始まるや、なんだか気分が悪くなり、先生に一時中断を願い出ようかと、思うほどであったが何とか悪気もおさまり、40分程で終えた。
 病室に戻ると、両親が「長かったねえ~」って心配の様相であった。
4

5


また、ベットで横になっていると、主治医の中野先生が病室を訪れてきて、手術に関するご説明をしますので、カンファレンスルームへおこしくださいと、両親と連れだって、部屋へ行った。
 まずは、縦隔腫瘍の説明から入り分厚い医学書から手術写真を見せられ、あらゆる危険性について、説明がなされた。まず癒着が厄介で、大出血するかも知れないこと、腫瘍が肺・大動脈・そして心臓にくっついている場合の説明。人口心肺の使用の可能性。
 輸血の必要性・麻酔の副作用・予後について。両親の横顔が青ざめていることに気づいた。
 そして、手術の同意書・輸血の同意書に父と共にサインし捺印した。
 私は、5歳の時に大量に輸血しているため、ただのO型の血ではだめな事。日赤から血をいただくこと、最初4単位という事で、サインしたが8単位に変更された。
 予想外の出血に対応するためらしい。後から妻に聞いたのだが8単位とは2リットル程らしい。そんなに出血が予想されるとは、なにか人事のように聞こえる。
 もうここまで来たら、逃げられはしない… 
話の中で5歳時の手術の話になり、阪大病院で真鍋教授に執刀していただいたこと、を話すと、中野先生も阪大出身だし、河内担当教授も阪大出身であるとの事。真鍋先生の事は良く知っているし、私が5歳のとき河内教授は学生であり、真鍋教授に教えていただいた事を聞いて、なんとなく親近感が沸いてきた。 「5歳の時でしたら、回復は早かったでしょう」
「1ヶ月後の退院の時には、もう駆け足で外をはしりまわってましたねぇ」と父が答えた。

手術日決定

手術の日が告げられた。1月10日である。当初20日頃と聞いていたので、少し
動揺した。後4日後…  すぐそこである。 まあ考える時間がないほうがいい。しかし、かなり怖さが先行した。 病室に帰って、両親に礼を言い帰ってもらう事にした。そして、先ほど先生からいただいた資料、婦長さんからいただいた説明書きを売店でコピーしてもらい妻へ持ち帰ってもらうことにした。
一人残された病室は入院前に準備してきた、荷物でいっぱいになっていたのを、少しずつかたずけていると、薬剤師の方がきて、うがい薬と、痰をでやすくする薬の説明を、親切丁寧にしてくれた。そしてネブライザー(吸入器)みたいなものも設置してくれ、1日3回するようにと、説明してくれた。術後痰を出しやすくするらしい。
8

(吸入器)
 7年前は、術後なかなか痰が出ずに、退院前に気管支鏡をされて大変な思いをした事がある。その後、担当の看護婦さんが来てくれスーフルもした方がいいという事で、売店で買ってきて、訓練することにした。(呼吸訓練器)
 今日の入院日、本当は妻も来たかったのだろう、しかし術後にたくさん病院を休まねばならない為、断念したが心配していることであろう。また、ベットに横になり子供のことやら、妻のことを考えていた。
 手術の怖さもだが、悪性で進行度合いの予後がどんなのか… とても不安だった。友人が、11月に乳癌の手術をし、ショックも有ったから、よけいであった。なんで、自分をふくめ、周りで重病人がでるのだろう…。
原因はなんだろう… ストレス…?タバコ…?不運…? なんて身体が弱いのか? 7年前にも友人が、乳癌が原因で亡くなった。7年前の右肺の手術事…あの時は悪性でなかった。いろいろな想いが頭の中をかけめぐった。
しばらくして担当の看護婦さんがやってきた。 いろいろと問診されたが、覚えていない。
術前検査はあと何があるかをきいてみたが、もうないようだ…
したがって、4日間 おとなしくしておくしかない。夕食の時間になりアナウンスが流れた『夕食の準備がととのいました…歩ける患者さんはデイルームへお越しください。』なにか、気恥ずかしいおもいでデイルームへ行った。すでにたくさんの患者さんが、食事中で、婦長さんの言ったとおり、座るメンバーと定席が決まっているようだ。 
 窓際の席に食事を置いて、座るとなんとなく落ち着いた。食事は7年前よりずっと美味しく感じられた。 新館のデイルームの環境があまりにもすばらしいので、そう感じたのだろうか。  窓の景色は、夕刻の6時…1月であるから、もうまっくらであるが、遠くに高速道の明かりが、帯のように見え綺麗だった。寂しさを噛み締めながら、しかし家族の思いをすると、夕食の用意をしている妻や、子供… そしてもう帰り着いたろうか…両親の事を考えると 息が詰まった。食事後、部屋に帰ると早々に主治医 中野講師・宮内助手・池上医師が回診に来てくれた。
 「今日は忙しかったでしょう、大丈夫ですか、とにかく風邪をひかない様に…」

入院して初めての夜

午後8時が来たので、家に電話することにした。
今日の出来事を、詳しく妻に話した。
両親が松山から帰ってすぐ、妻の所へ立ち寄り、今日の説明を済ませてくれていたし手術の説明のコピーを手渡していたから、お互いの話はスムーズすぎて、ぎこちない。 今夜は、眠れるだろうか… ここ数週間 寝れないので、妻が睡眠誘発剤を病院からもらってきてくれていたので、看護婦さんに言ってそれを飲むことにした。しかし、かなりな時間眠れなかった。
 家を出る時の、妻や子供の不安げな顔。 お仏壇を拝みにいって、初めて祖母に今回の事を伝えた時の、祖母の泣きそうな顔、出発前に高校時代の親友に電話で事情を説明した時の、親友の詰まるような声、手術の同意書にサインをしてくれている父親の横顔、いそいそと、荷物を部屋のロッカーへ片付けてくれる小さな母の後姿、病院から帰宅する両親の後姿。
 昨日、心配してわざわざ高松から訪れてくれた、親友の佐々木小児科ご夫妻。 九州から電話かけてきてくれた、大学の親友。
 グアム旅行での楽しいエピソード、そして佐々木家の面々。妻が病気の説明をした時、青ざめた顔色で神妙に聞いていた、妻の実家の両親。そして義理の兄弟たち。
 たくさんの励ましに送り出されてきたのに、それでもメチャメチャ不安…。
何がそんなに不安であったかって… 今となってもわからない。
今日の手術の説明の最後に中野先生から言われた言葉を何回も思い出した。
「どんな手術にもリスクは付いて回りますが、最善を尽くしましょう…質問はありませんか?服部さんに最後に質問いたしますが、今回の病気に対してどのように臨みますか…」   
「はい、どんな治療にも前向きに臨みます。」
「わかりました、頑張りましょう…」

手術前にお見舞い頂いた方々

手術前にわざわざ、お見舞いに来てくれた、親戚の叔父さん、高校時代の親友、そして妻の看護学校時代の親友が来てくれた事を記しておこう。みなさん本当にありがとう!
《母の兄 高松の叔父  高津のおいちゃん》
前ぶれも無く現れた… 「泰典君こんにちは… 」と金毘羅さんのお札を提げて来てくれた。
病状の説明をしたが、自分でも自覚症状が無いだけに、先生から聞いた受け売りしか説明できない。しかしわざわざ九州へ出張前に来て頂きありがたい。
金毘羅さんは守護神と思っているほど、何があっても金毘羅参りの自分には何よりのお札。5歳の時、阪大病院のベットの枕もとには大きな金毘羅のお守り札が掲げてありオペ後に麻酔から醒める寸前に金毘羅さんの夢を見た。
 綺麗な海に7隻の真赤な帆かけ舟が浮かんでいた。  五歳の子供の夢にしてはリアルであった。 などと話をしつつ「九州から帰り、手術の時にまた寄るから しっかりなぁ」と帰っていった。

《高校時代の親友   湯野君と 川口君》
午後2時の面会時間きっかりになってやってきた。さすが消防士で本来が硬い性格。 高校時代の親友? 悪友… 二人
「どんなんぞぉ~ ほんまにわるいんか~ 嘘だろわい」
「心配かけてすまんのなぁ~ わざわざ遠いところを… 」
湯野「いやいや今日は消防 非番だったきんのおえぇ~ これから道後のソープへ行こうおもてなぁ~ これがまたエエ ネエちゃんおんじゃわぁ~ どうぞい今から行っかい」 川口「湯野はまたアホな事ばっかりいよるのぉ~ まだほなんとこ行っきょんかい~」
 湯野「だいたい服部はバカせんきん病気にやかなるんじゃわい~ ええぞヘルスやらフィリピンやら、特にフィリピンがええのぉ~ とんでもないアバンチュールがあるきん」以下消去   とにかくバカな事ばかり話して去っていった。   ありがとう…  

《妻の看護学校時代の親友  佐々木美智江さん》 (今では高松の佐々木小児科の奥様)
「服部さん~」 …入り口と反対に座っていたので看護婦さんとばかりおもって振り向くと「み・ミッちゃん??? まさか… エェ~ どうしたん? 何で? 先生は?」
「ふふふ…一人できたのヨ 松山の蒸しパン美味しいから買いに来たついで…」 「ええ~一人でって どうやって?突然 蒸しパンって… うそぉ~」ただ慌てふためく。 
 「電車でよ 4時間近くかけてヨ… 今日から美幸ここに泊まるんでしょう? そしたら驚かそうよ…ネエネエ 写メールで二人の写真とって美幸に送ってやろヨ…病院らしくベットの上で… 肩くんで撮る…それとも寄り添う… いっその事キスしてるところ…」
突然きて早々、何を言い出すのか…この素晴らしい親友は!。
美幸からの返信メール『なんでそこにミッちゃんがおるんよ~ モォ~ 』
9

手術の前日

手術の前日である。朝早くから婦長さんがきた。
「お変わりはありませんか…明日の手術に自信を持って望みましょう。今日は麻酔科の先生そして、ICUの婦長さんが、ご説明に来ると思います。不安なことがございましたら、どうぞ遠慮なく聞いてください。 その後昼から、上半身の毛そりと夕刻は下剤そして浣腸をさせていただきます。よろしくお願いいたします。」
 目の前についに手術が迫ってきている。7年前よりもずっとずっと怖い。
今日は夕方には妻が来る。手術日前夜同室で泊まり、明日の早朝には両親と子供たちがやってくる。 妻が来るのを待ち焦がれて、窓辺からずっと眺めていた。やっと車が見えた。いそいそと1階まで降りていき妻の元へ駆け寄った。
「ありがとう… 疲れたろう。」  「寒いんだからこんなとこまで出てきたらダメヨ」
「荷物を持っていくよ」 二人でエレベーターに乗り病棟へ上がっていった。
妻は、廊下やエレベーターの中を見回し、「綺麗ねえ…」
「病棟の雰囲気や、病室も綺麗なんで~」  「ふ~ん、新しいし明るいねぇ~」
病室に入るなり「わぁ~ 本当に綺麗… トイレも綺麗やし 洗面も綺麗… 快適やネ」 自分の家や部屋を自慢する気分だった。
 遅くならないうちに、貸し出し用の毛布とか、折りたたみベットとかを借りるところを教える。ということで地下へエレベーターで降りていった。
妻がきたのは嬉しいのだが、一緒に地下へ降りてくるのが、明日は手術ということの証拠。
 一応説明して、病棟に上がり、付き添い許可書を婦長さんに頂き提出した。
「子供たちは…明日朝来るんやろ。」「今夜は家で2人で寝て明日、連れてきてもらうんよ」 しばらくして、中野先生の回診があった。 「明日の手術ですが、10時頃からの予定でしたが、1つ前の手術がキャンセルになったので、1番になりました。 心臓外科・血管外科・呼吸器外科 ・3つのチームで手術いたします。それから35年前の阪大での手術のカルテレポート大変役に立ちました。手術の方針がシッカリ決まったものですから… あの時代すべてがドイツ語だったので、訳すのに時間がかかりましたけどねぇ~」 ありがたい…
 河内教授・中野講師共に阪大出身なので、阪大にかなり無理を言って、カルテを送ってもらったに違いない。とっても心強い言葉であった。
早速、両親にも電話で手術が早まった事と共に報告した。
 
しばし妻と思い出話しやら、年末年始に行ったグアム旅行の話やら話しながら、妻に手紙を渡した。そして明日来る二人の子供たちへ、両親へ、今となったら何を手紙に書いたのか、サッパリおぼえていない。
その夜は下剤を飲み、なおかつ浣腸をし、そして睡眠薬を飲み眠りについてしまった。
 
いよいよ手術当日2003年1月10日(金) 

ついに手術の日、多分気持ちよく目覚めたと思う。
妻が、横のソファーベットで眠っているのをおこし、まだ青白い窓辺から外を眺めた。
看護婦さんがやってきて、術着を着るようにとの事。下着をすべてとり術着をはおり、ベットに横になる。 いよいよなんだ。
 7時頃主治医がやってきて、しきりに首や脇のあたりを手で押さえ、「どうもリンパ腫の疑いが、濃厚になってきました」と。
リンパ腫とは一番やっかいなやつ…。しかしその時は驚きもしないし、完治するぞという半ば開き直りのようなものが有った。  
 その後両親、子供たちがやってきた。子供たちを抱き寄せて、パパ頑張ってくるから… って言うと。娘たちが泣いているのがわかった。
 両親にも「頑張ってくるから、後は頼みます…」
看護婦さんがやってきて、麻酔の導入薬だろうか、注射をしてくれた。
何か、落ち着いていく気がした。しばらくして、ストレッチャーを押して、看護婦さんがやってきた。「さあ、服部さん頑張りましょうねぇ~」
ベットからストレッチャーへ飛び移り、横たわると妻の腕を引き寄せて、手を握り締めた。「頑張ってくるから… 目が覚めたら一番に会いに着てよ・・・」
「それでは行きましょうか…」
体に感じる、ストレッチャーの振動は何ともいえない… そして自分の意志と違う方向へどんどん進んでいく感覚は、なんとも不快であった。
「これより手術室になりますから、ご家族の方は病棟の方でお待ちください。」
たくさんの「頑張れ…」の声が聞こえてドアが閉まった。
長い廊下の中ほどで、病棟の看護婦さんから、手術室の顔までスッポリと深緑のマスクをかぶったような看護婦さんへストレッチャーはバトンタッチされ、手術室へ入っていった。
 オペ室は思っていたのより、大きく、天井は高く壁も床も真っ白のタイル張り。深緑の服装の医師やナースの姿が異様だった。
 大きなライトが白く輝き、まぶしい… しかしいつの間にやら、もうろうとしている自分に気がついていた。
 「いち・に・の・さん」ストレッチャーから手術台へ移され、横を向いて寝かされ、真っ裸にされたような記憶がある。
「服部さん、ひざを抱え込むようにしてくれますか…」指示通りにしていると、麻酔のため脊髄に針を刺しているのだろう…背筋が『ガリガリ』というのが感じた。硬膜外麻酔を脊髄から刺しているのだと夢の中のような気分で『頼みます先生と祈った。』
「服部さん…マスクをかぶせますよ…いち・に・さん」 一瞬にして記憶が消えた。
               
覚 醒

「服部さん…終わりましたよ…終わりましたよ…」
遠いところから、声だけが聞こえてくる… 
主治医の中野先生だろうか… 覚えていないが、頬を強烈に叩かれて目覚めた。一瞬目の前が、真っ白で光しか感じない。
その直後、全身に激痛が走った。 表現できない痛み…。そして息ができない。しかし、手術が無事終わったことと、生きている…という事を確信した。
まるで、空気が無いみたい…自分では必死で呼吸しているつもりでも、
苦しい…空気が入ってこない。そして激痛…。
「人口呼吸器を外すから、さあ、頑張って息をしましょう…」大声で先生が叫んでいる。
「鼻のチューブも外しましょう」「はい…チューブ外しますよ…」
また、声だけが聞こえ記憶が遠ざかっていく…
「ダメダメ…眠っては 眠っては息ができませんよ」 人口呼吸器が外された。
『えぇ~ 寝てはいけない~ とんでもなく息苦しく呼吸できない…』
「さあ…自分で呼吸してくださいよぉ~」頬を叩かれながら大声で呼びかけてくれた。少し、視力が付いてきた。はっきりと中野先生の顔が、目の前に見えた。「腫瘍はすべて取りきれましたよ。最終検査結果が出るまでわかりませんが、たぶん心配ないでしょう」     「…………」無言で小さくうなずくことができた。
 「痛いでしょうけど、頑張ってください。」 
周りの様子まではわからないが、ICUの様子はなんとなく感じられる。
異常に明るいし視界にはたくさんのチューブと点滴、そして心拍、血圧を写すモニターが、色鮮やかに動いている。『ピッ…ピッ…ピッ…』っていう音がリズム良くなっている。
10

 大きなマスクをかけた看護婦さんが何分おきにやって来ては、点滴とかの様子を見ている。
 鼻と口をおおう酸素マスクからは、『シュー』っという音とかすかな湯気が出ている。
 しかし、強烈な痛さだ、身動きすることもできない。手も重たくて動かない。看護婦さんがやってきて「痛みはどうですか・・・」  の問いに『顔をゆがめて』うなずくと「もうすぐ、ご家族の方がご面会になりますので、痛み止めをしましょうネ…」願っても無い言葉だ…。看護婦さんが注射を取りにいっているほんの、何分かがとても長く感じた。  足腰も異常に重い感じがしたので、足を動かしてみようとすると意外と簡単に思い通り動いてくれた。
 やっと看護婦さんが、細い注射器を手にやってきて、左腕に注射してくれた。足の位置が変わっているのに気が付いたかのように、「身体の向きを変えましょうか」  「…………」無言でうなずいた。
 しばらくすると、身体から痛みが潮がひくように消えていった。
痛み止めの利きを察するかのように、三角のスポンジを、右の腰から背中にかけて、しき込んでくれた。すごく楽になつた。 何度となくウツラウツラしていたか。
 意識の遠くの方で、妻の声が聞こえた…
間違いない、妻の声だ… 心地よい眠りから覚めるように目が覚めてきた。
看護婦さんに案内されながら、妻と二人の子供達が面会にやってきた。
「服部さん…ご面会ですよ…」    「どう… 頑張ったねえ … 」
初めて、右手を動かしてみた。そして妻の手を探し、子供の手を探し、ゆっくりと握った。
 「何時…」いったい何時間たったのかと聞いた。「今午後4時…手術は2時頃に終わったよ」
 「腫瘍はどうだった…」 「二つに切ってたけど、悪いものではないらしいし、リンパ腫ではなかったみたいよ…」 「よかった…」 「パパ頑張ったね…」 「うん…」
 「おなかすいたよぉ…」 「えぇ~またバカなこと言よる」 子供達は微笑んでいた。
 「痛みは、激しい…?」 「さっき、痛み止めの注射してくれて、少しまし…」
「でもほんとによかった、よかった。」
「喉の奥も痛いのだけど…」  「人工呼吸器の太い管がは入ってたからしょうがないわよ」
 「痛かったら、あまり我慢せずに痛み止め打ってもらいなぁよ。 今はあまり我慢せずに痛み止め使うほうが良いって言われてるからね」
 「疲れるから、そろそろ出るね、この後お父さん達がは入ってくるよ…」
「痛いけど頑張ってね…また明日来るから…」
 「今夜は、ホテルやろ… ツインに3人で泊まるん…」 「そうよ…じゃあネしっかりネ」
 「ありがとう」 子供達に弱々しく手をふって別れた。
随分、視界もはっきり見えてきていた。看護婦さん数人が慌しそうにしている。
 たくさんの「ピッピッピッ…」っていう音がやたら耳につく。
たまにその音のスピードが変化し、パトライトの赤い光が回転し、目を閉じていても、光を感じてしまうくらいだ。痛み止めを打ってからどの位なのか、また少しづつ苦しくなってきた。まだ、そんなに時間は経っていないはずなのに…。
 両親がやってきた。「がんばったね…」 「先生が、確実に腫瘍を摘出できたと言よったぞよう頑張った、頑張った。」
 「うん…ありがとう」  「やっぱり痛い…?」  「うん…とっても痛い…」
「目が覚める前に、夢で赤い大きな綺麗な鯛を釣り上げたよ… 」
「ああ~そうか・・・それはめでたい・めでたい」  「高橋さんに鯛を釣ったと電話しといて手術の前の日メールが来て、釣りの時の精神を集中するごとく大事に望む事って書いとったから、夢で綺麗な鯛を釣った…って 」 「ああ~わかった、わかった」
 「それから、会社の金森さんと、井元さんへも手術終わった事を知らしておいて…」
 「もう、あまりしゃべらん方がええよ…」 「とにかくよかったよかった」
「それじゃあ、今晩はホテルに泊まって、明日また来るネ」 
「うん…」  両親が出て行く頃には、かなり痛みが激しくなってきていて、話しするのも嫌になってきていたので、丁度よかったと思った。
 また、痛みが増してきて、麻酔から覚めたときよりも痛いような気がしていた。
 看護婦さんが、何度も体位を変えてくれたが、あまり楽にならない。
さっきの注射は、ものすごく効くのだと実感した。
 酸素マスクを通して吸う空気も、吸いにくく、ずんずん小さな早い息になってしまう。
 看護婦さんが定期的に様子をうかがいに来てくれる度に時間を聞いた。
ちょうど、午後7時頃だった、中野主治医がやってきて状態を見ていった。
「どうですか、痛みますか」 「とっても痛い…」 「硬膜外からも鎮痛剤が入ってますからましになって行くと思いますが…ねぇ」   「先生…喉が渇いたのですけど…何か飲んではダメですか。」 「ダメダメ…今夜一晩はダメですよ…内臓はまだ働いてないから、吐いたりしたら大変ですから… うがいを頻繁にしてください。」 
 うがいは、看護婦さんが何回となくしてくれている。そうじゃあなくて喉がカラカラで痛いほどだった。 うがいの時、喉に残る水を少しであるが、飲み込んだらすごく美味い。
 「あ、それともっと大きく息を整えてください。楽になりますから…そしてあまりに痛いようであれば、看護婦さんに伝えてください。」
そう言われても、苦しくて小さな早い息しかできないのだ。
あまりの激痛に、もう我慢できず看護婦さんに痛み止めを要求した。
「わかりました、しかし注射は何回もしないほうがいいから、座薬にしましょうネ」看護婦さんが、ゴム手袋をはいて座薬を入れてくれた。
ここにいたっては、羞恥心など存在しない。 
 30分位したら少しずつ、楽になってきた。少しは眠れるかなぁ…。
できるものなら、痛みが楽になるまでずっと眠っていたい。
しかし、注射から比べれば座薬の効きは良くない… 注射はよっぽどキツイ薬なんだろう。
 どの位時間が経っただろう… 苦しさで眠れない… 時間と共に腰まで痛くなってきた。

ICUにて一夜

 少しでも気を散らすために、看護婦さんが回ってくる度にうがいをさせてもらい、あまり喉がカラカラなので、スプーン1杯ほどの水分を喉に通した。 なんと美味しい。
夜半になって、多分11時ごろだろうか、にわかに慌しくなった。
ICUに緊急の患者が入ってくるらしい。医師と看護婦の会話が耳に入ってくる。
ちょうど私の頭元で「この患者さんは、今日のオペだったけど状態がいいので、HCUへ移ってもらいましょうか… HCUの受け入れを確認してください。」
 私の事である。今から移動… 不安… 最初に頭に浮かんだ不安は、ベットを移動する事。この苦しさで、移動させられるとは信じられない。
 「服部さん… 申し訳ございませんがHCUへお移りいただく事になりました。現在ICUで、一番状態の良いのは服部さんですので、夜中にすいませんがご協力くださいますか。」
「はい… 」不安ながら返事をする以外にない。
「HCUは同じフロアーですし、個室になっていますから、ご安心ください。」
「ベットはこのままでいいだろう… 」 医師の言葉にひと安心した。
医師一人と、二人の看護婦さんでベットが動き出した。 
キャスターの微妙な振動にも身体の痛みは反応して、顔がゆがんだ。
広い廊下をしばらく進んだら部屋に着いた。 HCUってどんなところかと思っていたら、個室同然で安心した。
ベットと一緒についてきた、医療機器がすべてセットされ、ナースコールのボタンを手の届くところへセットしてくれて、「なにかあったら押してください。」ほっと安心した。
 すぐに、HCUの看護婦さんがやってきて、熱が高いから氷枕をしてくれる事になった。
確か体温は、39度越えていた。 頭の下と脇の下そして股の間にもアイスノンをした。とっても気持ちよかった。
 廊下を小走りに走る音こそあるが、ICUよりはるかに静かで、酸素マスクの音だけが耳につく。 知らないうちに少しづつ呼吸は楽になっているように思えた。
 夜中に、点滴液の交換以外に30分おきに、看護婦さんが巡回してきただろうか…。
 朝方までに、1回座薬をお願いしたが、結局朝方まで、ほとんど眠れなかった。痛さをただひたすら我慢するだけ…
 この苦痛は、多分手術したことのある人でなければ、わからないだろうし、言葉や文字では表現できない苦しみである。
 手術前に、中野先生が言っていた「胸の手術は多分どんな手術より一番苦しいと思います・・・」 という言葉を思い出した。
カーテンの隙間から冬の白白とした朝の景色がうかがえた。
結局、朝まで眠る事はできなかった。
この痛みの中で身体は確実に自己治癒力を発揮し頑張ってくれているのだろう。
 時間があまりに長すぎて、いろんな事を考える。 不思議な時間だった。

術後1日目の朝
12

 早朝、早出の看護婦さんがやってきた。
 「おはようございます。服部さんの担当です、よろしくお願いいたします。」と言って一通り処置をした後、「汗がすごいですねぇ~後で着替えましょうネ」と言って出て行った。
 『着替えるって…いったいこの苦しいのにどうやって着替えるのか…』
ちょうど、前回より4時間位経っていたのでナースコールで座薬をお願いした。
 「ついでに、身体を拭いて着替えますか…」 「待ってください少し座薬が効いてからにしたいので…」 「わかりました…楽になったらコールしてください。」
 身体が少しづつ楽になっていくのが、わかった… 
30分ほどして、看護婦さんがきた。 「じゃあまず、身体の汗を拭いていきましょう。」と言って、おもむろにT字帯を外しだした。下半身が真っ裸だが、一生懸命な看護婦さんの姿を見ていると、羞恥心はなく早く終わってもらえるよう、足を上げたり下げたりと協力しようと思った。しかし腰を浮かせて、お尻の下にバットを敷きこまれたときには、顔がユガンダ。 しばらく息ができないくらいの痛みが胸のあたりを襲った。
しかし、手際よく洗浄を続ける看護婦さんに、悪いのでじっとこらえていた。
 今度は、寝巻きの着替えであるが、両手には多数の点滴の管と、下半身には尿の管、そして、腹部にはドレーンの管が2本通っている。 どうやって着替えるか不安…片方の腕から手際よく、点滴の管をもつれを解くように袖を抜いて行く。
 ゆっくり横へ寝返りをしながら、片方の着物を背中の下へとくぐりこませていた。 やっとの事で、着がえがすんだ。 
 しばらくしていると、「失礼します…」と言って天井までとどきそうな機材を押して医師とナースが入ってきた。 いったい何が始まるのか… 
「レントゲンを取りますね… 」 背中を持ち上げられ、硬い板を敷きこまれた。痛みで息ができなかったが、無事終了。
 その後、中野先生、宮内先生、池上先生が朝の回診にやってきて、傷の消毒とガーゼ交換を済ませた。傷口を恐る恐る見ると、大きい・・・。
中野先生が、看護婦さんにテレビを持ち込むように指示した。「なるべく上半身を持ち上げてください。痰も出やすいし、ドレーンも出やすいですからね、自分でベッドの角度を調整して…」と言って、一気に上半身の部分を電動で持ち上げられた。頭がくらくらする
 胸の痛みで、顔がゆがんだ。 「痰も一生懸命出しましょう…胸をしっかり押さえてネ」 まだ、本格的な咳も痰もでていない。 でも、胸の奥で何かゴロゴロって感じるから痰が出てくる予感を感じた。 不意に、咳が出た。 今までに感じた事の無い激痛。
 喉の奥のほうが気持ち悪いし、不意に咳が出ては嫌だから、自分で慎重に咳をしてみるが、痰は出てこない。でもなにやら出てきそうな予感があり、かなり上半身を起こして何度も咳をしているうちに、汗でビショビショになり、胸を両手で押さえやっとのことで、かなり痰が出た。 痰を出すだけなのに、精神を集中しなければできない苦行である。
 しかし、しっかり痰を出しておこうと思った。 7年前の手術のときは、自分から痰を出す努力をしなかったため、気管支の奥に痰がたまり退院前に気管支鏡をするはめになったから…。 気管支鏡は絶対もう嫌だ。  その後も何度となく痰を出したが、すこしづつ要領がつかめて、痰を出す事になれてきた。 オーバーな話だが、痰が出た後は本当に安堵感があるくらい、大変な苦行だ。
 しばらくして、テレビが持ち込まれてきた。 先生の言うように時間の経つのが長いので、テレビにスイッチを入れてみたが、うるさいだけで、何も見る気がしなかった。
 全身が重くダルイ、そして熱い、頭はボーっとしている。傷口は依然 痛い。たまらなく、座薬をお願いした。 しばらくは4~5時間おきかなぁ~と思いつつ痛みが少しづつ、和らいでいくのを待っていた。
 面会時間がやってきたのだろう…  「ここ…ここ…」と言うかすかな声がして、妻と子供が入ってきた。「ICUからいつ移ったん」 「救急が入って、一番状態がいいからって 夜中に移ったんよ…」   
「元気そうになっとる…」 次女が言った。「今何時…」「2時を回ったところヨ」 「やっぱり、ここは2時にならなければ入れんの…」 「そうみたいキッチリしてるから… 痛みは… 苦しい…? 」 「夜中苦しかった… 今は座薬で抑えてる。」
「何回注射した…」 「ICUで1回だけだよ」 「ふぅ~ん」っとなにやら上の空で、点滴やら硬膜外の機械やら、モニターをしきりに見て、最後にドレーンの様子をうかがい、
「たくさん出てるねぇ~ まだ血がいっぱい混じってる… んん… ドレーンは2本も入ってるん…」ホースをたぐりながら… 「そうみたい… さっき池上先生が左のほうがドレーンが多いって言ってたし、ガーゼ交換のとき少し見たけど、お腹に2本ホースが入っている」 「でも、本当によかったねえ~リンパ腫でもなかったし、緊急の病理検査も悪いものではないようだし、正式な検査待ちね。 輸血しなくてよかったようよ… 」
「ほんと…良かった。後でいらん心配せんでもええからなぁ~」
 子供達は笑顔で笑っていた。  「なあ、腕時計どっかにあるやろう、時間がわからんから、夜が長くて長くて。」 「さがしてみる… あったあった そしてマスクも…」といって妻はマスクをかけた。「どうしたん…風邪…?」 「うん…なんか気が抜けて、とってもつかれたぁ」   本音だろう… 長時間手術を待つ身になると、疲れるだろうし…。
 終わった後は、張り詰めていた緊張から気が抜けても当たり前であろう。
 こっちは、何も知らずに寝てたのだから。
夕方になって、術後1日目でなんと夕食が出た。
2分粥と梅肉、そしてゼリー 
ベットを45度程起こして、妻がスプーンで粥を口に運んでくれた。
梅肉のすっぱさが妙に美味しかった。
粥はほとんど残したが、口当たりのいいゼリーは全部食べた。
横で子供達が見ていたが、どんな思いで見ていたのか…。病人とは不便極まりない。
 面会時間は7時までであり、家族は帰らねばならなくなった。
家族が帰ってまもなく、主治医がやってきて、ドレーンの1本を抜くことになった。
 「前にも、ドレーン抜いた経験ありましたよねぇ~だったら大丈夫」 と言われても全く記憶に無かったから、痛くないんだ~と思い安心していると。
「言うとおりにしてください。 大きな息を吸って…止めておいてください。はい・抜きます… 」 『痛い…』 一瞬であったが腹に激痛が走った。
ドレーンホースを抜いた後、穴はどうするのだろう… 針で縫うのであろうか…と思っていると、穴の周りにはすでに糸が通されていて、巾着の口を絞るように簡単にふさがった。
 「ドレーンも点滴も一本一本なくなるから、ずんずん楽になりますよ。」
「酸素も5㍑に落としましょうか…」といって酸素のバルブのメモリを6から5㍑に設定してくれた。  息苦しさはほとんど無かった。
その後、歯を磨きましょうと看護婦さんがやってきて、歯を磨いてくれ、頬にバットをつけて、うがい後の白湯を頬つたいに吐き出した。
なんとも情けない姿だがしょうがない。
 その夜も座薬がなければ、ダメであった。
夜中、1時間おき位に看護婦さんが来るたびに目が覚めたが、昨夜よりは、はるかに楽になっているのが自覚できた。
11



術後2日目の朝

2日目の朝がやってきた。
6時頃、採血があったのだが、両手に点滴が入っており、正確なデーターが取れないと言う事で足首から、採血する事になった。 足から採るのは初めてだったので怖かった。
看護婦さんが、ヒゲを剃りましょうといって、電器剃刀を取ってくれ「自分でできますか・・」
というから、自分でやってみた。  まだ、あまり手が自由に動かないし、首を動かすと傷が痛む…  剃り終わった後に、「やはり、ひげ剃ると元気そうになるわねぇ」といって今度は、またもや昨日と同じく体を拭くのと、着がえである。
 看護婦さんの案で、パジャマのほうが楽だろうと言う事で、持参のパジャマに着替える事になった。  しかしパジャマはズボンがあるため、昨日よりも着がえが困難だった。
 今日もレントゲンくるのかなぁ~と思ってたら、案の定である。
背中の下に板を入れるくらい苦しいものは無い。
朝食である。 もう今日は5分粥になっていたし、卵とうふもついていた。
そして伊予柑か、何かの柑橘…  自分で剥いて食べてみた。
とっても、とっても口当たりが良くて美味しかった。
夢中で食べたから、食べている最中は痛みも感じないほどであった。

先生が回診してきた。もう左の手首の点滴を外す事になった。
動脈に針が入っているため、慎重に抜いてくれたが、手が重たくダルイ…
しばらく止血のため、しっかりとテーピングがされていたが、それでもガーゼに血がにじんでいた。
 しかし、片手でも開放されて楽になった。そして、尿の管も外してくれた。
ドレーンは夕刻に外す予定だそうだ。 酸素も4㍑になった。
 昼食はすでに全粥になっていて、魚の煮つけまでついていた。
面会時間が来て、両親がやってきた後、妻と子供達もやってきた。
状態も安定しているため子供達を連れて、一度妻は家へ帰ることになった。
まだ2・3日 HCUに居るため、妻の介護の必要は無かったから、個室に移ってから付き添いをしてもらう事にした。  顔色を見るとかなり疲れているみたいだし、熱もあるようであった。 精神的気疲れ… 無理も無い。
 帰る前に、便意が有りそうに思われ、妻に相談し看護婦さんに言って、トイレに行く事にした。初めて立ち上がらねばならないが頑張る事にした。便器に取るのは絶対に嫌だ。
 車椅子が運びこまれ、まずドレーンタンクを車椅子に据え付け、次に点滴がつられた。
 そして、身体をスローモーションのように動かしながら、ベットから降りて立ってみた。
 多少の目まいはあったものの、何とか車椅子に座る事ができた。
部屋から廊下へ出た瞬間、なにやら嬉しさを感じた。そして向かいの車椅子用のトイレに入り、中には妻に残ってもらい、用をたした。
やわらかい、便と共にガスが出た。 3食の粥だけの食事をしただけなのに、出るものは出るのだ… 消化器官はしっかり働いているのだと、オーバーに思うくらい嬉しかった。
また、車椅子に移り、部屋へと帰った。
 本当に妻がいてくれて、助かった。
看護婦さんとトイレの中に入るのはさすがに嫌だったから・・・。
その夜、もう一方のドレーンが外された。  残りは、右手の静脈に入っている点滴と酸素マスクだけになった。酸素も3㍑に減った。
 この頃から、頻繁に痰が出るようになり、苦行が続いた。
 座薬は6時間おきになっていたと思う。
 3日目の夜は、かなり眠れたとおもうが、やはり看護婦さんが来るたびに、目は覚めていた。
 「服部さん…まだ未定ですけどね、明日の午前中には一般病棟へ帰れるかもしれませんよ、明日も手術が有るのですが、救急室もHCUも詰まって来てるから、たぶんね…状態も安定してきたし、すっかり元気になってきたでしょ~。 まあ、明日先生が正式に指示するでしょうけどネ。」
 ICU・HCUのナースは、いつも張り詰めた仕事内容だけに、あまり会話はしないのだが、それでも何名かのナースとはたった3日程度だが、少しは親しくなっていた。

外科病棟へ移動

朝早くから、病棟の副婦長がやってきた、今日一般病棟へ移る事、病棟では個室に入る事など説明してくれた。
これからお世話になる病棟のナースが、状況説明にわざわざHCUへ来てくれるとは… 精神的に安心する。
病棟説明に来てくれたのはマニュアル通りなのだろうが、なにかわざわざお見舞いにでも来てくれたかのような、心温まる対応に本当に安心できた。
朝食後まもなく池上Drがやってきた。
「服部さん病棟へ移りましょう 本当に快復が早かったねぇ~ 」
「看護師さん…車椅子持ってきて」 と外科の医師は誰しもあわただしい…短気なのか。
自分で車椅子に腰掛けるや、「婦長さん僕が病棟へ連れて行くわ… 後の引継ぎはやっといて…」というとさっさと車椅子を押していた。
「ここは3階だから一般のエレベーターでも上へ上がれるけれど、せっかくだから、見学して帰りましょう」とICU の方へ進めていった。
「ここがICU…普通はこんな所はとおらないけどね…そしてここからが手術室… 服部さんがオペしたのは、この広いローカの一番奥の部屋ですよ」
たくさんのオペ室があるのが見えた。もう二度と来るところではない気がした。
殺伐としたスタッフ専用のエレベーターに乗り病棟へ着いた。
エレベーターのまん前のスタッフルームでは朝のミーティング中で、たくさんのナースがいた。 池上Drはそこめがけて大声で「服部さん帰ってきましたよ…」といったものだからたくさんのナースから激励の挨拶を受けた。
個室に到着し一安心。
ベットに横たわってみると、HCUとはちがいすごく落ち着いた。
しばらくするとナースが「服部さんレントゲンを撮りに行きますよ」と車椅子を押してきた。
「レントゲンってどこへ」 「1階のレントゲン室よ…」ここは別館だから本館のレントゲン室まではかなり距離がある。 少し不安そうな顔をせると「大丈夫よ…服部さん快復早いし、しっかりしてるから」となにやらおだてられたみたいである。
パジャマの上に厚手のフリースをはおり、なに思わず車椅子に乗りこんだ。
ナースにいろいろ声を掛けてくれながら進む車椅子は実に快適であったが、エレベーターが1階に到着し、ドアが開いた瞬間廊下の空気が一気に胸の中に入って来た。
なんて冷たくて何か臭い…。今までは一定温度の温室みたいな所にいたから臭いのか
喫煙所など無いのにタバコの匂いまでまじっている。なにやら気分悪くなり車椅子のスピードを緩めてもらった。マスクをしてくれば良かったと内心思った。
レ ントゲンは立ち姿勢で無事撮り終えたが、帰り道冷たい空気と匂いに気分が悪く、突然に咳き込み激痛と共に嘔吐があって、ナースに迷惑をかけてしまった。

個室での生活
13


個室に引っ越したからには、マイルームである。
この際、徹底的に楽しんでやるぞと… 自分の必需品を部屋いっぱいに並べる事にした。
両親には面倒かけたが、一時撤退していた荷物を再度持ち運んでもらった。
まずはベット回りから… ベットマットの上にバスタオルを敷き詰め、枕にも肌触りの良いタオルを巻いた。熱のせいだろうか一日寝てるとシーツが湿るほど汗をかくからだ。
次に移動テーブルの上にはノートパソコン… これは入院時に婦長さんへ許可をもらったのもの。 入院説明書にはパソコンの持ち込みは禁止となっていたが、インターネットはしないから、ワープロ機能とCDを聞くためと言う事で許可が下りた。
しかしIT時代にパソコン持込禁止とは大学病院も遅れていると思った。
そして、お気に入りのCDケースと携帯MDプレーヤーとヘッドフォーン。
ノートパソコンだからチッチャな移動式テーブルに乗っけても邪魔にはならないし、常に手元にあるため、思ったことをすぐ書き込めていわゆる日記帳状態。そして、お気に入りのデジカメ画像を入れているのでアルバム代わり。
お気に入りのCDをパソコンにセットすると、心地良くメロディーが流れてきた。
CDラジカセの方がよほど音質も良かろうが、一台3役…なのでこれで良し。
母は衣装類をロッカーに整理してくれ、父は窓辺の出窓にたくさんのお札を並べてくれた。
出窓にお札だけでは殺風景なので、子供の写真やグアム旅行の写真を入れた写真立てを2つ、そして病室にはやはりお花は定番でちゃんと持参していた花瓶に花を飾った。
14

15


そして最後に、ベットの手すりに可動式のベットコントローラーとナースコール用のスイッチをセットした。
ここまでするのに、普通なら1時間程度だろうが、右手に点滴と心拍センサーそして酸素吸収率のセンサーなどが付いているし、やはり痛みをこらえての作業なので休み休み2時間位はかかったかな。
病人にとって暇な時間を楽しむ事は、大切な事だと思うよ、だから空間も自分好みにしないと気がすまないのよね。
昼頃になって、痛み止めが切れてきたのか初めて動きすぎたのか、倦怠感と痛みそして
すごい発汗…  体温を測ってみると40度近い。体温の数字を見ただけでベットに倒れててしまった。  ここでまた座薬をお願い…。
座薬が効き始めるまで30分くらいかかるが、この時間はなんとも言えぬ快楽感がある。
ウトウトとしていてボーっと見える視線に、父の姿が映ってきた。
傷と痛みに効くという大阪の石切神社のお守りを手の平に乗せ、こわごわ胸の上でさすってくれている。直接身体に触れることなくかなり離れた位置で…。
目を開けて「ありがとう」と言おうとしたが目に涙が浮かんで頬を流れるため、目は開けない事にした。 心の中で手術前に急遽大阪まで行ってくれた親心には感謝・感謝…!

私のトラウマ…

5歳のとき心房中核欠損で手術をして以来、自分の胸には特別の感覚がある
今で言うトラウマだろうか。
40年近く前の傷なのだから、ケロイドも無く完治しているはずなのに時として下着が接触していても不快に感じる時がある。
今回のオペにて胸骨を正中切開するとDrから聞いた時は、背中からでも、腹からでも別の箇所から切ってほしいほどだった。
こんな事を考えているのは、そろそろ回診があり、傷口の消毒とガーゼ交換があるからだ。
22


傷口をイソジンで消毒するだけなのに恐怖を感じる。
医師達がやってきた。 
仕方なく胸を開き心の準備もするのだがピンセットにはさまれた脱脂綿が傷口に近づくや胸を引いてしまう。
初めてじっくりと傷口を見てみると、かなり大きい…
鎖骨の下あたりからお腹の上まで25センチ位だろうか、ホッチキスのような鈎が規則正しく食い込んでいる。出血も化膿もしていないようだ。
ドレーン傷2箇所もかさぶたになりつつある。
顔をしかめていると医師が、痛いですか…冷たいですか…などと問うがそうではない。
只々、そこには誰にも触ってほしくないという表現が適当だろうか。
中野Drが一言「子供の時の記憶はありますか」と言うから返答した。
「阪大病院の病室の様子・オペ室へ向かう暗い廊下の様子・オペ室のライトや器具の数々・術後に真鍋教授に連れられて事例発表された講堂の様子・今でも目を瞑ると想い浮かぶ」などと答えた。 「子供の記憶と共に胸の傷に強烈に焼き付けられているんだろうね」

ここで少し5歳時の心房中核欠損について記しておこう。
小さい時からよく風邪をひいたり、熱を出したりしていたそうだが、普段は普通の子供と何ら変わらずに遊んでいたらしい。強いて言えばほっぺがりんごの様に異常に赤かったと言う事くらいだろうか。
 ある日、近所の開業医で、心臓の音がおかしい事を指摘されたらしい。
通常『トン・トン・トン』鼓動が聞こえるのが『トン・ザザザ・トン・ザザザ』と違音がするらしいのだ。
 すぐさま、小児科の医師に見てもらったところ、どうも心臓に欠陥があるらしいとの事。
 誰しも小さな我が子の心臓に欠陥があるらしいと聞いては、不安だろうし不憫に思わない親は居ないであろう。 両親の心境は計り知れない。
 小児科医に紹介状を願い、大阪の阪大病院へ精密検査にいった。
当時は、国鉄で高松まで行き、連絡船で宇野へ渡り電車で岡山まで、そして山陽本線で大阪へ… もしくは高松から関西汽船で神戸まで… 一日がかりの大業病院通い…

阪大病院の記憶…

阪大病院での診断はやはり、心房中核欠損症であった。
私の場合心房の壁に“ウズラの卵”大の穴があいていた。心臓の大きさはその人の手の握りこぶし程と言われているから、5歳の子供の心臓に“ウズラの卵”大の穴は大きい。
 誰しも母親のお腹に居る胎児の時は、穴があいているのだが、胎児の成長にともなって穴は無くなり誕生してくるそうだ。 
肺で酸素を補給された血と、体内から戻ってくる血とが交じり合い、放置すれば成人になる頃には障害が発生し長生きはできないらしいのである。
当時10000人に1人の割合で患者が居たらしい。
 阪大へ入院した病棟に、私より2歳くらい年上の女の子がいた。
たしか、私と同じ病気で手術したと思うが、私が手術する何日か前に手術で亡くなった。その子の麻酔の方法は、全身氷づけにされ仮死状態での手術であった事を後で聞かされ身が凍る思いがしたのを覚えている。40年近く前の事で近代と違い医療技術も数段の違いが有った事だろう。

手術の日の事は鮮明に覚えている。 両親や祖母、そして親戚の方々に見送られながらたしか父の肩車からストレッチャーに乗り移ったと思う。
手術室の長い廊下で家族と別れるとき、父が言った「シッカリな…男の子は泣いたらいかん! 泣いたら手術成功せんぞ…」と送り出されたものの、廊下を進んで行く時に涙が一筋流れたのを覚えている。
 広い広いオペ室に、まぶしいばかりのライトもハッキリ覚えている。

麻酔から醒める前に夢を見た。
物心ついた頃から毎年初詣に行く金毘羅神宮の帆掛け舟の夢である。
澄み切った空の下、真っ青な海原に、真白な帆に○金の船が、七隻浮かんでいた。
手術前から、枕もとには大きく立派な金毘羅のお札が掲げてあって、私の夢の中へ御利益を運んでくれたに違いないと今でも思っている。
その事を両親にも告げたような気がするのだが…。
従って、私の場合は何か事があれば必ず金毘羅さんへお願いにいく事になっている。
 もちろん今回も、年末と年始にはお参りし、ありがたいお札を受けてきた。
オペ後の痛みまでは覚えていないが、胸に住みついたムカデのお化けみたいな傷は胸の真中から右の脇の下まであり、ガーゼ交換が嫌だったのと、胸に溜まる汚水を抜かれる注射は恐怖だった。子供の目から見ると松葉の様な針と牛乳ビンほどの太い注射に見えて恐れおののいた。
その記憶が今でもトラウマとなり私の胸には住み着いている。

急性肝炎併発…

一般病棟へ移っての治療は、抗生物質の点滴がほとんどであった。
痛みは随分緩和されていたが、硬膜外ブロックの鎮痛剤は背中から外されていたので、一日3回の座薬による除痛は必要であったし、いっこうに熱が下がらない。38度~39度の範囲を行ったり来たり。
採血の結果、急性肝炎を併発していると医師から告げられた。
大きな手術により麻酔やその他の薬剤投与の副作用が原因と思われ安心はしていたものの高熱になるとよけいに胸全体の疼痛にも影響があったように思う。
夜になると必ず熱が上がり、ナースが氷枕を頻繁に変えてくれた。
 Nナースは担当であったにせよ、病室の前を通るたびに様子を伺ってくれたのは心の励みになった。
 ここでは医療事故防止のため点滴交換の再には、必ず自分で名前を言わされる。
同じナースが日に何度も点滴交換に来てもなお、名前を言うのであるが、すこし恥ずかしくなる時も有る。それと、点滴液の内容を品名・効果・容量・等を詳細に説明してくれる。 これも看護マニュアルなのだろうか。
 それにしても、ナース一人一人の対応と質は立派なもので、患者としては本当に安心して闘病に当たれたし、初心者マークをつけたナースに至っては真剣で献身的な姿に関心すらしたものであった。スタッフステーションで真剣にミーティングしている姿などを見ると人の命にかかわる仕事というものは、どんなに厳しいかが伝わってくる。
 「服部さん今はお熱下がっているから、シャワーしましょうか」担当ナースのNさんの呼びかけに、一瞬たじろいだ。 この苦しい身体でどうやってシャワーするのかと思ったが、せっかくの事だし応じる事にした。
 まずは洗面所で洗髪からである。洗髪専用の洗面台で顔を下向きにしシャンプーしてもらう。思ったよりもスムーズに出来たし、その手際のよさは抜群であった。
 問題は下半身のみのシャワーである。点滴はまだぶら下げているので、下半身のみ脱衣するのであるが、いくらナースと言えども羞恥心はある。 たじたじしていると後ろから
 「パジャマの下を取りますよ…」と言って下ろされ、介助されながら浴室にいった。
 患者専用のイスがあり座らされ、シャワーが上半身に掛からないように、腰から下を洗ってくれた。とってもサッパリした。まだ若いナースに感謝・感謝である。
 個室に移って二晩ほどは、母が付き添ってくれた。この歳になって母に看病してもらうとは思ってもみなかったが、食事の時・着がえの時・そして洗濯物等 本当に助かった。
 日中は暇なものなので、昔話に花が咲いた。  こんな機会でもない限り母親とこんなにも話す機会など無かったであろうと思う。 今回の病気は親不孝なのか親孝行なのか…
 自分の心臓手術の話やら、小児リュウマチで6歳でこの世を去った弟 浩典の話やら終戦後、母の家族が今の北朝鮮から引揚げてくる時の話やら…
本当にめったに出来ない話を聞かせてもらった。

妻が付き添いにやってきた…
16


自分で立てるように成ってからは、やはり歩行訓練である。
最初にデイルームまで歩けた時には感激した。 健常者の足でならほんの数十秒の距離が今の自分には、一つ一つ自分で物事を行える為の訓練の道のりの様に長い。
 少しづつ歩行距離を伸ばしていくが、足の幅がなかなか広がらず、どちらかと言うと摺り足のようだ。まあ、慌てず・さぼらず・諦めずの精神でがんばろう。
 右手静脈の点滴と携帯の心電図のセンサーが外される事と成った。これですべて身体に付いていた異物は無くなり、本当に開放的に成った。
 いやいやまだ有った。傷をがっちり食い止めている、糸である。糸といってもこの頃ご存知のホッチキスの針のようなもの。 これが外される頃にはもっと楽になっているであろう。
 オペ後6日目だったろうか、妻の風邪の調子も快復したので、母とバトンタッチすることになった。 念願の再開である…とはオーバーであるが、とにかく嬉しい。
 病院の個室で久しぶりの新婚生活とでも言いましょうか。
夕刻、妻に頼んでシャンプーとシャワーをする事にした。先日Nナースがしてくれたように、洗髪用の洗面台で。洗髪といっても簡単なものである。というのも今回のオペ前に、坊主頭にしていたからだ。
 8年前、術後頭が痒くて痒くて辛い思いをしたから、スッキリバッサリと中学生の頃にやった本当に坊主頭というヤツである。 初めてシャンプーしてもらうまでは、毎日タオルで顔も頭もふき取っていたから随分と楽であったし快適に過ごせた。
 その後、シャワー室で下半身だけシャワーをしてもらった。 気持ちよかった。
 シャワー室は、未使用であけば毎日でも使用できたので、その後毎日使わせてもらい助かった。 また各施設が清潔に保たれているので、本当に快適であった。
 妻の夕食は近くのスーパーで買ってきて部屋で食べた。妻との久しぶりの夕食に晩餐会になった。
 しかし、まだ肝機能が良くならないためか、食欲が湧かない。
特に脂っこいものは気持ち悪くて体が受け付けない。あっさりした物を買ってきてもらって食べていた。
 その日は消灯過ぎてもなかなか寝付かれず、晩くまで色々とおしゃべりをしたなぁ…。
 その夜、あまりの苦しさにナースコールで座薬をお願いした。暗い部屋にナースがやってきて、ゴム手袋をし懐中電灯で局部だけを照らして、座薬を挿入してくれる。
 妻もそうだが、ナースとは大変な職業である。 次回からは自分で入れようかなぁ…

携帯電話  そして メール

別紙にまとめた“病院からのメール集”があるが、今回の入院で本当に助かったのは携帯電話と特にメールである。
 外界と閉ざされた別世界に居るので、友人・知人とのコミニュケーションはメールに限る。 
 しかし、規則では携帯の電源を切るのは原則であるし、人様に迷惑をお掛けするわけにはいかないから、バイブ状態にして尚且つやわらかい布に包んで枕もとに置いていた。
 個室であれば携帯の使用は、常識の範囲で許すべきであろうし、メールに関しては、会話なしに連絡を取り合える手段としては、病人にとって最高の良薬のように思う。
 携帯メールという一見味気ないような通信手段だが、筆をとることを忘れてしまった私にとっては、手紙が届くほどにメールが嬉しかった。
電話や、会話ではなかなか言えない事も、メールの文字にすればかなり内面的な事まで表現できるし、手紙、ハガキは それはそれで感激はするのだが、瞬時に感情のやり取りができるという意味では、電話と手紙の良いところのミックスって感じだろう。
 とにかく、家族やたくさんの友人からメールによって励まされたのは事実である。
 入院中はかなり現実離れした私のメールに付き合ってくれた方々にお礼申し上げます。
 今後は先端の医療施設においては、携帯の取り扱いについてもマニュアルを作るべきであろうし、病室にインターネット接続の必要性だって多分にあると思う。患者の快適性・人間性の尊重から考えても、特に末期の病にふしてインターネット通信の希望がある患者には、絶対必要不可欠のように思う。
 Drが回診の時にベットの枕もとで、メール着信バイブの振動が一瞬感じたが、面白いことにDrは自分の白衣のポケットをまさぐって『うぅ…ん』って顔を傾げたが、枕もとの携帯電話の存在に気づいていたに違いない。
 ある日Drが「ノートパソコンを見て、PHSのインターネットつないでる…?」 って聞かれた。 「この病院で私達やナースが使ってる携帯電話は病院内専用のPHSとは言ってるけど、普通のPHSとなんら変わりがないから、PHSタイプの端末なら医療機器にも何ら影響でないのにねえ~ パソコン持込禁止なんて遅れてるよねえ~」
 「よく心臓のペースメーカーに携帯が悪影響及ぼすと聞きますが本当でしょうか…」
 「通常の携帯電話は問題があるらしいですが、ペースメーカーから30センチ以上離せば問題ないらしいですよ。 ちゃんとした取り扱いルールを作れば良いのだけどね…」
 ナースにも一度メール打ってるところを発見されたが、見て見ぬふりをしてくれた。
 病院内での携帯の使用は、本人のマナーの問題で解決できると思うのだが…。


初めての通常便
17

常食をいただきだして、何回かの便通はゆるかったが、初めて硬いお通じがあった時の事は忘れられない。
昨日までは下痢状便であったのに、便器に座ってみると便意は有るのに全く出てこようとしない。 下腹に力を入れ様にも、胸が痛いと言うより、力の入れ方を忘れたかのように力む事ができない。   変な話だが何分座っていただろう。徐々に徐々に便が下腹を下がっていき、肛門を開きながら押し出されるのがわかる。
 早く出てしまえばよいのに…と思っても、いきむ事ができない。
脂汗が額に流れ出し、気分が悪くなってきたが悪戦苦闘の末、硬便を制覇した。
 目からは涙がでていた。トイレで涙を流したのは初経験だった。
汚い話で失礼。 しかし終わった後の爽快感というか満足感というか…
病人はこんな事に満足感を覚えるのだからやはり、非日常的である。
しかし消化器官は確実に正常な状態を取り戻したのだと安心。

痰の出し方…

痰を出す事は大切…と言うのは手術された方なら誰しもDrから言われる事だろうがこれが簡単にいかないのである。
 手術前にネブライザー(吸入器の様なもの・酸素バルブから取り入れられる酸素をノズルから薬液に吹き付けると霧状になった薬液が噴霧状態になり、肺の中に吸い込んでも痛くも痒くも無いし、手術前は咽る事などほとんど無かった。)を毎日欠かさず行ったし痰が出やすくなる薬も毎食後飲んだ。
 手術後も酸素吸入の最中に一日3回ほど、ネブライザーの時間が有った。
1回15分位なのだが終了後、胸の奥から痰がゴロゴロと上がってくるのが良くわかる。
21

 恐怖におののく待ち時間… 小さな咳を何度も何度も繰り返しながら、胸を両手でしっかり押さえておき、咳と共にあがってくる痰を待つ。 この時点ですでに緊張で汗がでる。
 オーバーに聞えるだろうが精神を集中させなければ、一塊の痰は上がってこない。
 しくじると、中途半端で喉の奥に不快感が残るし、この状態で身体を横にしてしまうと予期せぬ咳に強烈な痛みを味わされる。 
 日が経つにつれて、痰の出し方もコツをつかんでくるとシメタものである。
体内に必要ない不純物が排泄する行為も病気の快復にとっては大変重要なものである。
術後、胸の二箇所に入っていたドレーンの管から出ていた、廃液なんか見ていると快復していくのが目でみてわかる。
 透明のホースを流れていく、液体は最初は真赤な血の色、徐々に黄色に茶褐色、続いて薄黄色の液にたまに血が混じり、ホース撤去の前は、ほとんど黄色い液体だけ。
 人間の治癒力と快復力は『すごい…!』の一言に尽きる。
胸の痛みが、氷が溶ける様なスピードで良くなるにつれ次の問題が発生してきた。
 首や肩そして背中から腰へと筋肉痛とも肩こりとも違う、実に不愉快な傷みを感じ出した。
 今までは、胸周辺の疼痛があまりにも激しかったため感じなかったのかもしれない。
 筋肉痛と言うよりも打撲痛にちかいかもしれない。
首の両側面そして背筋の両サイドなど上半身全体が痛いと言った方が正解。
まずナースに聞くと、オペ後ずっと上向きの体勢で寝ているのと、痛みで筋肉が硬直しているからとの返答である。
 確かにまだ、寝返りを打ったり下向きに寝た事は無い。
身体を横にする事はできるが、胸骨を切ったところが今だくっ付いているはずが無く不安だし真横にして寝る事はできない。
 歩けるようになったし行動範囲も随分広くなったとは言え、すべての行動はまだスローモーションの様だし、動く時は必ず胸をかばうせいか、首がまえに突き出され姿勢が悪い。
 全神経が胸のあたりに集中するためか全身の筋肉が硬直状態である。
この頃妻によく言われていた。
「もっと背筋伸ばして… 首をまっすぐ… 姿勢よく… リハビリしないとそのままの格好で見っともないよ」
鏡で自分の姿を写すとまさに老人体形になっている。
気が付くごとに胸を張ろうと努力するが、意外とこれが難しい。
痛みと言うのは人それぞれ感じ方が違うのだろうが、やはり私の場合は痛みに弱いのか… 首腰の痛みには、湿布薬で対応していた。
 あるDrが言うには「打撲のような痛みはオペ後の患者さん皆さんが訴えますよ…オペ室での体位を説明しましょうか…  硬い手術台に全裸に近い状態でねかされ 足も手もベルトでしっかりと固定するのですよ。 特に服部さんのように胸骨正中切開などの場合は、背中にマットのようなものを敷きこみ、海老ぞりのような状態で何時間も固定されるのですから、オペ後後遺症は無いほうがおかしいですよ…  プロレスの技を
何時間も掛けられているのと同じですからねぇ~ハハハッ」
実にわかりやすく説明してくれた。  
これで納得である。一生懸命動いて少しずつ解していかねば…。
19


お見舞い
18

 たくさんのお見舞いの方が訪れてくれた。
患者にとって・・・、まあ私みたいな手術後は快復への一途をたどる患者にとってお見舞いの方の訪問はとっても嬉しい。
暇で暇でしょうがないから、話し相手になってくれる人が来てくれるのはありがたい。
 そして、普段めったに顔を合わさないような人もたくさん来てくれるから余計に嬉しい。
 大安などの土、日曜などはせっかく来てくれたのに次から次えとお見舞いの方が押し寄せせっかく遠路来て頂いたのに申し訳なく思う。
来ていただく方の勝手を言わせてもらうと、日の悪いほうがゆっくり話ができて嬉しいなんて勝手を言っているが、本当にお見舞いほど嬉しいものは無い。
 お見舞いのエチケットとして手術直前のような心境複雑な時のお見舞いには「がんばって!」とか「心配いらんよ」など励ましのお言葉はいらないような気がする。
 現代は患者に対してインフォームド コンセントと言う医師からの開示・告知がはっきりしているから、患者にとっても病の受容とは一生懸命葛藤し、これ以上頑張れないほど頑張っている。 だから励ましや勇気付けよりも日頃の日常会話のほうが楽であり、一時でも不安から開放される時間の方が助かるかなぁ。
 それと痛みや苦しみがひどい時は、誰とも話したくない気分の時さえある。
手術直後のお見舞いは控えたほうがいいかな。
 
大学病院の外科ともなると、いろんな人が入院している。
同じ病棟にも、難病、奇病をかかえた患者さんがたくさんいた。
入院当初自分の病気は大変な事だと思い込んでいたが、色々な患者さんを見ていると大学病院の外科において、私みたいな手術したら、はい終り・・・的な患者はぜんぜん大した事はないのだ・・・と思ってしまう 。

世の中にはいろんな苦しみを背負った人たちがたくさん居る。
それでもみんなそれぞれの幸せを探して、懸命に生きている。
余命短い方もいらっしゃったが、本当に立派に闘病なさっていた。

 いのち  
それは神様からあずかった 大切なもの
懸命に生きていつぞや 神様におかえし しなければ
それまでは 自分なりに 無理をせず
こうやって 毎日 暮らしているのです

いつも窓辺から外を見ていた 初老の男性がポツリと話された言葉です。
命… 生きて行くこと、いや生きている事… それだけで立派なことだと思う。
20



スポンサーサイト

テーマ : いま思うこと
ジャンル : 日記

Secret
(非公開コメント受付中)

あれから3年もたつんじゃぁ。
なぜか、メグの連れのなっちゃんも一緒に、お見舞に行ったことを昨日のことのようにおもいだします。まあぁ、ストレスをためない事でしょうか、自分らしく生きれたら素敵v-353です。
何事も体が、資本だから、無理せずにがんばりましょう。v-91v-91v-91
感謝
そうよね~ストレスためない事
自分らしく生きること

無理はしない事

みんな元気に今年も一年過ごしましょ~
ちなみにマミちゃんのお見舞い画像 続きにコソット
掲載しときます
v-353そっか、センター試験の帰りだったんや。。
毎年この時期は寒いよなあ。
外出できるようになったら、おっちゃん、マスクして、帽子かぶって、ダウン着て、めっちゃ、あやしかったなぁv-407
思い出したぞ~
あん時からしたら、だいぶ薄着になったよなぁ。
しょうちゃんって、名前とおんなじで、いつも笑ってるよね。
とっても、素敵です。
見習って、私もいつも笑ってるようにしよっと。v-10
坊主頭
そうそう 確かにモコモコに着込んでたよね・・・
でも頭は坊主だった~ 寒かったよ!
やっぱ・・・目つき怪しかった?

笑ちゃん ・・・ 本当にいつも素敵な笑顔をありがとう!
ところでゲルマニューム温泉の効果・効能ってなんなん?
美白・美肌・・・・? 美しくなりすぎじゃあ~ん!
笑ちゃんへ。
私もひろみくんと圭と一緒に8月からジムにかよってるん~
平日の夜9時からコースっていうのにはいってます。
最近のメニューは、30分ぐらい走って。その後腹筋50回、背筋30回あとは、マシーンを色々するんよぉ。
毎日、いろんなエアロビだとか、ファイテイングラッシュだとかの
クラスもあるので、気が向いたらエアロビをする時もあるよ。
最初の頃は、プールで泳いでたんだけど、耳の調子が悪くなって、今はジムばかりですぅ。
ほとんど毎日仕事みたいにいってるよん。
んでも、土、日行かないと反対に調子が悪いかも。。
まぁ、はまってるって感じかな。
その後大浴場に入って、サウナに入って、11時ごろ帰宅です。
腰痛にとてもいいみたいv-392
腹筋50はスゴーイv-237私はそのエアロビのクラスに出てる。早くにきてマシンで30分は歩くようにしてる。仕事のない日は2,3時間はいるよ。その合間にゲルマに浸かってる。これは体の中の悪いものを出してくれる。すごい汗が出るでーv-218岩盤欲っていうのもあるけどやったことないわ。11時帰宅だったら帰ったらバタン休だねv-206
岩盤欲やて岩盤浴やでv-48これは岩の上に寝るのだ。これもすっごい汗出るえv-221
岩盤浴~?
だろう~ 「ママァ~笑ちゃん岩盤欲?してんだって??何のこっちゃ?」って「うぅぅぅん?」
そっかv-48のことね!でもさゴツゴツの岩盤の上で全裸で寝るの~?きゃゃゃぁ~硬い岩肌にしなやかな裸体!それチョットe-380 e-270
ちょっと違うで
岩盤浴はやった事ないんやて。パンフによると岩というか平らなとこに寝るらしい。全裸ちゃうでv-42ゲルマは手と足をつけるんじゃ。ゲルマのお湯にv-237昨日も今日も尚ちゃんは接待飲み会なのだv-275私は携帯 機種変更したから覚えなくちゃーv-266心配しないでね番号は変わらないけんv-221
おっちゃん、これは反則や。レッドカードや。。
コメントのしようがないよう。

生きたいと願っても生きれない人、
心の病で死にたいと願がっている人、
そう願っても、思い道理にならない。

人間は生かされているのだと思う。。
何か意味があって生かされてるのだと思う。
生かされている間は、謙虚な気持ちで毎日を生きようと思う。
自分らしくありたいと思う。
みかママ ~
やっぱ 反則だったかな~

1/20は大阪へ出張してきま~す。

さむぅぅぅう

人間は何か意味があって生かされてる
そうだよね その通りだと思う
ほんじゃ~ 頑張って仕事してくるわい~

元患者の 叫びに付き合ってくれてありがとう~
また 呑もうね~  
やっぱりなあ
私もなんとコメントしたらいいのかわからなかったのが本心。でも今元気になった事を実感して明るい未来に向かって頑張れv-237
ごめん ごめん反則やね
この闘病記き3年前オペ後社会復する前、暇だったから
書いたものです。

入院中にメモのようにパソコンに残していた日記をまとめたんよ
マッ!今となっては懐かしい~話になりつつあるけど
あの時は マジ 痛かった! いや迷惑かけました。
ご心配かけてすみません。  反省!

って事で、反則の話はこれまで 終わり!
また、楽しくおもろい話をして行こう~
プロフィール

おっちゃん

  • Author:おっちゃん
  • 早や人生折返し地点!
    今までターニングポイント☆
        数回…
    生命の危機もあわせれば
    何度進路変更したか…?
    でも、楽しく考えれば
    人生捨てたものではない
        けっこう楽しい
    素敵な人間であるために
       日夜・精進中


最近のコメント
最近の記事
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
♪BGM
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。